いたちごっことしての政治改革 〜それでも私たちは問い続ける

政治に期待することは、時に虚しく思える。選挙のたびに並べられる美辞麗句の数々、公約として掲げられた理想が、選挙が終われば煙のように消えていく。議員の不祥事が報じられ、そのたびに「再発防止」「ガバナンスの強化」という言葉が繰り返されるが、気がつけば、似たような問題がまた別の場所で起きている。

この繰り返しは、まるで「いたちごっこ」のようだ。抜け道を防げば、新たな抜け道が見つかる。制度を整えれば、それを回避する裏技が生まれる。政治改革という言葉が、どこか空虚に響くのも無理はない。

しかし、それでもなお、「いたちごっこだから意味がない」とは言い切れない。

政治とは、つねに利害と妥協、期待と失望の間で揺れ動く不完全な営みである。すべての人を完全に満足させる制度やリーダーなど存在しない。それでも社会は、少しずつ「マシな方向」へと積み上がってきたかんじもしないではないです?

かつては当たり前だった癒着や腐敗が、今では問題として可視化されるようになった。SNSの発達により、政治家の振る舞いが瞬時に監視され、批判されるようになった。政治家自身も、それを無視すれば選挙で報いを受ける時代にいる。

つまり、いたちごっこは社会が「動的」である証だ。変化がなければ、悪事は見えず、改善もされない。動いているからこそ、修正もできる。
民主主義における政治とは、永遠に完成しないパズルのようなものであり、理想と現実の間での不断の調整作業なのだ。

「政治家が公約を守らないのは当たり前」「仕組みを作るのは議員だから、自浄作用なんて期待できない」。確かにその通りかもしれない。だが、それでも私たちは声を上げ、問いを発し、記憶し、比較し、次の選挙で選び直すことができる。たとえそれが遠回りでも、無力に見えても、それこそが市民の力であり、希望である。

いたちごっこに見える政治改革も、実は社会が健全に機能している証拠だとすれば――
私たちはそのゲームを、決して降りてはいけないと思う次第です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です