「報道しない自由」と情報コントロールの危険性

ふとテレビを見ていて、「なんでこの話題ばかりなんだろう?」と感じたことはないだろうか。あるいは、ネットで見かけた話題について「テレビでは全然やっていなかったな」と気づいたことはないだろうか。

情報があふれるこの時代、私たちは「報道されていること」を通じて社会の出来事を知る。でも、よく考えてみてほしい。「報道されていないこと」には、一体どれほどの重みがあるのだろうか。

報道機関は、本来、私たちの「知る権利」に奉仕する存在のはずだ。けれど現実には、スポンサーへの配慮や政治的な圧力、あるいは自主規制によって、ある出来事は大きく扱われ、別の出来事はまるでなかったかのように葬られる。そう、意図的に“報じない”という選択がなされることは、少なくないのだ。

SNSを利用していない人、ネットに詳しくない高齢者層にとっては、テレビや新聞がほぼ唯一の情報源だ。そこからこぼれ落ちたニュースは、「存在しなかったこと」になってしまう。これは、ある種の情報の“コントロール”ではないだろうか。

たとえば、選挙期間中にある候補者の疑惑が報じられず、別の候補者の発言だけが繰り返し取り上げられたら、人々の印象は大きく偏ってしまうだろう。あるいは、性的加害の告発が、タレントの人気や事務所の力によって黙殺されたとしたら、それは“公正な報道”といえるだろうか。

もちろん、報道には限界がある。全てを網羅することは難しいし、編集判断も必要だろう。ただ、何が報じられて、何が報じられなかったのか――その「差異」には、常に目を向ける必要がある。なぜなら、私たちが「重要だ」と感じる出来事の多くは、報道によって形づくられているからだ。

問題なのは、報道されなかったという事実に気づかないこと。そしてその背後にある意図や構造を、知らず知らずのうちに受け入れてしまうことだ。

制度的に見ても、こうした“報じない自由”をチェックする仕組みは乏しい。BPO(放送倫理・番組向上機構)も、放送された内容に対しては意見を出せても、「なぜ報じなかったのか」については口を挟めない。つまり、報じるかどうかの選択は、ほぼ完全にメディアの“内側”で完結してしまう。

では、どうすればよいのか。唯一の答えではないが、まずは私たち一人ひとりが、「これは本当に中立な報道なのか?」「なぜこの情報は出てこないのか?」と立ち止まって考えることから始めるしかない。複数の情報源に触れ、見えないものに想像力を働かせること。それが、自分の思考を守る唯一の盾になる。

見えないものは、存在しないわけではない。
報じられないことの裏側に、時としてもっとも重要な真実が隠されているのだから。

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