考えることを奪う朝
朝、テレビをつけると、いつもと変わらない空気が流れている。
芸能ニュースに、無難なコメント、最後は今日の運勢。
一見、穏やかで親しみやすい朝の情報番組。
けれど、あるときふと気づいてしまった。「これは本当に“情報”なのだろうか」と。
ニュースが流れたと思えば、すぐにコメンテーターの感想が続き、「そうだよね」と相槌が入り、次の話題へ。テンポよく、気楽で、わかりやすい。でも、どこかで、自分が考える隙間が消えていることに気づいた。
誰かが代わりに「こう思えばいい」と示してくれる。占いが「今日はいい日だよ」と背中を押してくれる。芸能人が笑っていれば、「まぁ、今日も大丈夫か」と思わせてくれる。
それは、優しさにも見える。でも同時に、少し怖いとも思った。
なぜなら、自分で考える余地がどんどん奪われていくからだ。
本来、ニュースは社会を映す鏡のはずだ。
見たこと、聞いたことに「どう思うか」「なにが問題なのか」と問いを立てるのが、情報との向き合い方だったはずだ。
けれど、今の朝の番組は“考えなくても済む”ように丁寧に整えられている。
もちろん、すべての視聴者が深刻なニュースを求めているわけではない。
朝の忙しい時間に、気分が重くなるような話ばかり流されても困る。
でも、それでもなお、「自分で考える」ための余白がまるでない構成には、やはり違和感を覚える。
私たちは、知らず知らずのうちに「気分よく一日を始める」ことを優先するあまり、「自分で判断する」という力をテレビに預けてしまってはいないだろうか。
楽であることと、考えないことは、似ているようで違う。
前者は心の余裕をもたらすけれど、後者は判断を他人に委ねることにつながってしまう。
朝、ぼんやりと流れるテレビの音のなかで、私は今日も静かにチャンネルを変える。
自分の頭で考えるために。
自分の目で世界を見るために。
